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近代日本の化学技術者は、「満洲」の資源をどう認識していたのか@北京日本人学術交流会

10月13日 @ 16:00 - 21:30

 参加費: 社会人220元、学生100元

第335回北京日本人学術交流会においては、「近代日本の化学技術者は、「満洲」(あるいは中国)の資源をどう認識していたのかー満鉄中央試験所の化学技術者たちを中心にー」というテーマの報告が行われます。
近代日本の科学者や技術者が、中国の資源に着目し始めるのは、日清、日露戦争後のことですが、より本格的な関心は、第一次世界大戦後、日本が、帝国主義列強の最後のメンバーとして「連合国」として滑り込むことに成功したころから生じていくことになります。
このとき日本は、青島のドイツ租借地やドイツ南洋諸島を攻略していました。
第一次世界大戦の戦場は、おもにヨーロッパでしたが、毒ガス、潜水艦、航空機など近代兵器がはじめて戦場に登場したのは、この時のことでした。
これに呼応するかのように日本では理化学研究所や陸軍科学研究所が、創設されました。
このころとりわけ日本において大きなインパクトを与えたのは、ドイツの化学工業の進展でした。
1909年のドイツのカールスルース工科大学のフリッツ・ハーバーによる大気中の窒素と水素からアンモニアを合成する方法の開発と、1913年のボッシュによる工業化は画期的なもので大規模化学工業への道を開いたとされます。
日本は、日清、日露戦争から常に資源不足に直面していましたし、第一次世界大戦のときにはヨーロッパから輸入が止められ、「資源小国」という観念にとらわれていくことになります。そこで日本の政府関係者は、「資源問題打開の鍵は、本格的な化学工業にある。」と考えたのでした。また、彼らの資源問題の関心の中心は、日本の隣に位置する中国という広大な土地を持つ国の資源を開発し、いかに「資源小国」である大日本帝国の「発展」に役立てるかということでした。
当時の「満洲」の大連には、満鉄中央試験所という化学工業の研究所が設立されていましたが、1940年には、内地の科学研究費全部と同じだけの予算がついていることがわかっています。いかに満鉄中央試験所が、資源問題を解決する研究所として期待されていたかが、うかがえます。1930年代からは、満鉄の総裁や外務大臣を経験した松岡洋右によって「満蒙は、日本の生命線」というスローガンが、考案され唱えられていきますが、これは、当時の日本の資源に対する考えを象徴するスローガンともいえます。当時の多くの日本人の資源への欲望は、「満洲」へと向かい「満洲」の資源が、日本を救うと考えていたのでした。
その「満蒙」の中心的な化学工業の研究所である満鉄中央試験所の化学技術者は、「満洲」(あるいは中国)の資源をどうみていたでしょうか。
当時の学術雑誌には、それを知る手掛かりになる論考や論説が残されていますが、これまでそれらが、顧みられることはほとんどありませんでした。
ここでは、当時の学術雑誌(主には『工業化学雑誌』という学術雑誌)に依拠し、おもに満鉄中央試験所の化学技術者たちが、「満洲」の資源をどうとらえていたかを具体的に考えます。
この問題が単に過去の問題ではなく、現在の日本の資源問題やエネルギー問題にも通じている問題であることが理解されることでしょう。

このような問題にご関心ある方は、10月11日(木曜)の深夜までに以下のフォーム
にお申し込みください。どうぞよろしくお願いします。

◎第335回北京日本人学術交流会
◎日時:2018年10月13日(土曜)午後3時半開場午後4時ごろから開始予定、報告、質疑応答、食事など午後9時半ごろ終了予定。
◎場所:亮馬橋幸福ビルB座中華レストラン京味菜の一室(詳しくは申し込んでいただいた方にお知らせします。)
◎テーマ:「「近代日本の化学技術者は、「満洲」(あるいは中国)の資源をどう認識していたのかー満鉄中央試験所の化学技術者たちを中心にー」
◎報告者:山口直樹(北京日本人学術交流会責任者)
◎参加費:資料代、運営費、食事代
社会人(企業派遣留学生含む)220元、学生100元
◎言語:主に日本語

(要旨)
近代日本の科学者や技術者が、中国の資源に着目し始めるのは、日清、日露戦争後のことであったが、より本格的な関心は、第一次世界大戦後、日本が、帝国主義列強の最後のメンバーとして「連合国」として滑り込むことに成功したころから生じていくことになる。
このとき日本は、青島のドイツ租借地やドイツ南洋諸島を攻略していた。
第一次世界大戦の戦場は、おもにヨーロッパでしたが、毒ガス、潜水艦、航空機など近代兵器がはじめて戦場に登場したのは、この時のことであった。
これに呼応するかのように日本では理化学研究所や陸軍科学研究所が、創設された。
このころとりわけ日本において大きなインパクトを与えたのは、ドイツの化学工業の進展であった。
1909年のドイツのカールスルース工科大学のフリッツ・ハーバーによる大気中の窒素と水素からアンモニアを合成する方法の開発と、1913年のボッシュによる工業化は画期的なもので大規模化学工業への道を開いたとされる。
日本は、日清、日露戦争から常に資源不足に直面しており、第一次世界大戦のときにはヨーロッパから輸入が止められ、「資源小国」という観念にとらわれていくことになる。そこで日本の政府関係者は、「資源問題打開の鍵は、本格的な化学工業にある。」と考えた。
(だから、日本ではとりわけ帝国大学の工学部応用化学科が、重視されてきた。満鉄中央試験所の化学技術者もほとんどが、帝国大学工学部応用化学科の出身である。)
また、彼らの資源問題の関心の中心は、日本の隣に位置する中国という広大な土地を持つ国の資源を開発し、いかに「資源小国」である大日本帝国の「発展」に役立てるかということにあった。
当時の「満洲」の大連には、満鉄中央試験所という化学工業の研究所が設立されていたが、1940年には、内地の科学研究費全部と同じだけの予算がついていることがわかっている。いかに満鉄中央試験所が、資源問題を解決する研究所として期待されていたかが、うかがえる。1930年代からは、満鉄の総裁や外務大臣を経験した松岡洋右によって「満蒙は、日本の生命線」というスローガンが、考案され唱えられていくが、これは、当時の日本の資源に対する考えを象徴するスローガンともいえる。当時の多くの日本人は、「満洲」の資源が、日本を救うと考えていたのだった。
その「満蒙」の中心的な化学工業の研究所である満鉄中央試験所の化学技術者は、「満洲」(あるいは中国)の資源をどうみていたのだろうか。
当時の学術雑誌には、それを知る手掛かりになる論考や論説が残されているが、これまでそれらが、顧みられることはほとんどなかった。(これに関連しては拙稿「戦前期における丸沢常哉の科学技術思想―植民地科学史研究の視角から」『葦牙』(第42号,2016年)参照。)
ここでは、当時の学術雑誌(主には『工業化学雑誌』という学術雑誌)に依拠し、おもに満鉄中央試験所の化学技術者たちが、「満洲」の資源をどうとらえていたかを具体的に考える。
この問題が単に過去の問題ではなく、現在の日本の資源問題やエネルギー問題にも通じている問題であることが理解されることだろう。
この報告は、以下の手順で報告される予定である。
〇はじめにーなぜ「満洲」の資源問題を問うのか
1、ドイツ化学工業の日本へのインパクト
2、満鉄中央試験所の概要
3、満鉄中央試験所の化学技術者だった者たちの満洲資源観
(1)鈴木庸生の場合
(2)佐藤正典の場合
(3)栗原鑑司の場合
(4)鉛市太郎の場合
(5)丸沢常哉の場合

〇おわりに
満蒙は本当に「日本の生命線」だったか
戦後日本の資源、エネルギー問題とのかかわりなど

詳細

日:
10月13日
時間:
16:00 - 21:30
費用:
社会人220元、学生100元
カテゴリー イベント:

会場

亮馬橋幸福ビル中華料理店京味菜の一室

主催者

北京日本人学術交流会
イベント終了